第5回 多極の共存 遊牧国家と中華王朝
東アジアの歴史は遊牧国家なしには語れない!
オリエント以上に遊牧民が関わってくる
遊牧国家 VS. 中華王朝
東アジアの大きなつながりをみていきます
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ポイント
遊牧国家が中華王朝に与えた影響
両者の共存はどのように実現したのか?
1. 匈奴と秦・漢
しん=Chinaの語源
匈奴は文字を持たず、今もその実情はわかっていない
しんやかんの記録にわずかに残るだけ
始皇帝が対策に追われる
万里の長城
徴兵も行う
反発が大きく、滅亡のもとに
そのあとのかんが対抗しようとするけど歯が立たない
きょうどのうまはかんよりもすぐれていた
どうする?
武帝が画策
交易に活路を見出す
オアシスとしぐんを発見
かんけつばをてにいれようとする
シルクロード交易のはじまり
万里のちょうじょうをのばしつつシルクとかんけつばをこうかん
武力をてにいれてきょうどを打倒した
中華王朝は 遊牧国家に対抗して国のあり方や政策を変えながら発展を目指した
きょうどの登場はでかい
北に遊牧国家、南に中華王朝というこうずができあがり、この構図がずっと続くことになる
きょうどの段階で遊牧国家のしくみがほぼできあがった
複合的な連合たい
低住民、商業の民もいる
低住民の存在をしめすものがいろいろ見つかっている
人工的な池とか
かわらに、ぜんう
遊牧国家の君主の称号
漢字を使う人物が移住していたのでは?
牧畜してる遊牧民は文字を使わないので、書けないはず
きょうどの西側を漢がおさえた
シルクロードの交易を確保することに成功
中華王朝が西側に発展したのは遊牧国家あってこそ
2 北魏と唐
せんぴ
3せいきごろ、ユーラシア大陸のきおんが下がったらしい
ヨーロッパではゲルマン人の大移動
東アジアでも遊牧民が南下
せんぴが北魏をつくった
仏教
で、唐をつくった
とうは遊牧民のルーツをもつけど、とっけつと対立していた
とっけつの属国になるほど
弱体化に応じてとうが攻め込んで統一
一気にばかでかい中華王朝がうまれた
ソグド人
イラン系の商業民
シルクロード交易を牛耳る
資金、情報源、せいけんのブレーンにも
楽器、ファッション、あそび、おどりを唐にもたらす
唐は国際都市に!
多様な民族や価値観が受け入れられる時代に
エキゾチシズムにそまった国家
いわゆる中華風ではない
もとともとは中東のオアシス都市で灌漑農業をやってた
じゅずつなぎにソグドじんだけのエリアがあり、それが交易ネットワークとなった
有能なひとたちだった
武装していて軍事にも長けていた
軍人としてもすごかった
きびしはい
ウマやうしをゆるくつなぎとめるという意味
現地の遊牧民たちに一定のとうちけんを与える間接支配をとった
広すぎて手がいきとどかないため
ゆるくて大丈夫なん?
だいじょばないときもありました
突厥はいっかい復活する
安禄山
突厥とソグドじんの血を引いていたといわれる
あんしのらん
→唐は弱体化
ちんあつしたのは遊牧国家ウイグル
ゆうぼくみんと宗教
中国に仏教がひろまったのは北魏の時代
寒冷化で人々が不安に
遊牧民と共存しなければならない
人間関係だけを定めた儒教はあまり意味をなさなくなる
石窟寺院はインドのもの
それを中華に持ち込んだのは北魏
西側にいた仏教教団をまるっと長安に連れてきて石窟寺院を作らせた
仏教教団は知識や技術、とくに建築技術につよかった
お寺とか仏像をつくるから
仏教はユニバーサルな性格ですごい
出自、生業、性別を問わず誰でも救済する
受け皿がでかいので社会に広まりやすかった
聖武天皇のときの東大寺の大仏
3 きったんと北宋
唐の滅亡後、北宋のかいほうが商業都市として発展
貨幣の生産がはじまったのがでかかった
納税も現物から貨幣へ
しょうぎょうも活性化
きょういとなったのは契丹
北宋も長城をつくってた
契丹がせめてきたー
圧倒的に強かったので、北宋から和平交渉をもちかけた
せんえんのめいをむすんだ
北宋から毎年大量の銀や絹をおさめる
そのかわりに国境を遵守
越境逃亡者はつかまえて即時ひきわたし
軍事しせつの設置禁止
共存!🤝
北宋は唐よりも小さかったが、経済力がえげつなかった
ので、安全保障のためにちょっとくらい資源を渡してもいいよという考え
ODA
契丹としては物がほしくて攻めてきてたので、物がもらえるならいいよ、という感じ